新緑の隠岐の島めぐり
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島根半島の東北40〜80kmの海上に位置し、4つの有人島と大小180余りの小島からなる群島で、島根県に属する。
  主要な島は群島最大で淡路島の半分の面積を持つ「島後(どうご)」とそれに次ぐ「島前(どうぜん)」である。
        
  縄文時代は矢じり等に使われた黒曜石の産地であった事から、北陸地方や遠くは大陸までの海上交通路が開かれた。
  奈良時代から平安初期にかけては、渤海外交の中継基地として大陸文化の伝来に大きな役割を果たした。
  中世以降は遠流の島と定められ,後鳥羽上皇・後醍醐天皇など約3000人に及ぶ貴人、文化人が配流された。
  彼らが伝えた都の文化は時空を超え今なお伝統芸能や行事の中に確実に伝承されている。
  江戸時代に入ると、北前船の風待港として隆盛を極めることになる。
  幕末から明治維新にかけては、松江藩の支配に対し、隠岐維新(隠岐騒動)と呼ばれる島民の蜂起が起こり、一時的に
  住民による自治政府が樹立された。

    
                                  
                            
初日 

  羽田から米子空港まで空路、境港から超高速船「レインボー」乗船80分で隠岐島後:西郷港到着から旅が
  始まった。

  最初に隠岐国分寺外苑牛突き場で闘牛ショー、隠岐国分寺(平成19年2月25日不慮の火災で本堂消失)を見学した。
  廃仏毀釈が特に隠岐では激しかったと司馬遼太郎が書いているが無残な仏像を見て気持ちが悪くなった。
  五箇村の水若酢神社、隠岐しゃくなげ園から隠岐総社の玉若酢命神社で樹齢200年という天然記念物の
  八百杉をみた。(台風や落雷の被害で哀れな姿になっていた)

  島後の観光が終り、再び超高速船レインボーで隠岐・島前、中ノ島の海士港に夕方7時に到着した。
  船上から眺めた夕陽が素晴らしかった。
  夕食の海鮮料理(カニ・イカ・小振りな二枚貝の鉄板焼、もずくの酢の物)が美味しかった。
  早朝から12時間の及ぶ今日の行程、長かったが快晴に恵まれ、料理も美味く、上々の立ち上がりだ。

                             弐日目 

  5時半から近辺を散歩した、竹薮から聞えるウグイスの鳴き声が気持よかった。
  魚中心の朝食は美味かった、アジの開きが付いたが流石に身が厚くて美味しかった。
  9時にホテルを出て、後鳥羽上皇所縁の隠岐歴史民族資料館、後鳥羽上皇火葬塚、隠岐神社を見学した。
  目にやさしい柔らかな新緑が印象的だった。

  バスと徒歩で急坂を登って辿り着いた金山寺からの展望も素晴らしかった、続いて海中展望船で
  海底の砂の波紋や遊泳する魚を見た。 

  海士港に戻り、海鮮昼食(メルーサ粕漬け焼、イカ刺身、海苔巻きと混ぜご飯のオニギリ)を賞味した。
  5分ほど、バスで移動して菱浦港から小型遊覧船で名勝「国賀海岸」を見物した。
  波の力で穿たれた洞窟など、雄大・豪快な景観が素晴らしかったが船の揺れが激しく、再三バランスを
  失いかけて往生したが最後に極々狭い船引運河を通過して、浦郷港に無事到着できた。

  松江市美保が関の七類港へのフェリーを待つ間に、イカ引き海岸(昔は手掴みでイカが獲れたそうだ)や
  由良女神社を見物した。
  更に時間が余ったので岸壁近くの観光土産店をひやかし、一番安い乾燥ワカメ300円を求めた。

  隠岐の島への往路は高速船80分の船旅だったが帰路は大型フェリーでの2時間余りの船旅だった。
  フェリー船内では2等客室だったが30円で毛布を借り、横になったが隣の爺さんが煩くて寝られずに
  上甲板に出て
缶ビールを飲んで時間をつぶした、17時56分に無事に七類港へ到着できた。
  このあと皆生温泉に泊まり、翌日松江や出雲を回って帰京した。

  今回の隠岐観光の旅は幸い天候に恵まれ、美味しい魚を沢山いただき、すばらしい景観も楽しめた、
  しかし、罰当たりではあるがいろんな島内の神社を見学したので、最後はどれがどれと分からなくなった。
  昔の高校修学旅行で回った関西を思い出した。

  

風景・花・動物・鳥