波照間島
050311

石垣島から南西63km、東経123度・北緯24度に位置する
有人島では日本最南端の島である
一方東南アジアから見ればこの島は、北東へ数千キロにわたって連なる日本列島の入り口である
日本人の祖先の一派である、南方系の人々が渡って来た島でもある

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島は隆起サンゴ礁でできたお盆を伏せたように見える、東西6km南北3kmのほぼ楕円形である
周囲14,8km、面積12,75平方kmで標高は60mである
人口は581人(2002年9月)、人口の2/3がサトウキビ栽培に携わり、漁業専業者は一桁である
島にはハブはいないが小さいサソリがいる、しかし刺されても虫に刺され程度だそうだ
島には信号がない、全島が歩行者天国である
車は民宿7軒の送迎用マイクロバスと農耕用トラクターだけである

       波照間島への快速船
最高時速60kmが出るという快速船は石垣島離島桟橋を定刻に出発、左に竹富島、右遥か先に西表島を眺めて、いよいよ外洋に出た
普段でも西からの強い海流が流れる交通の難所だそうだが今日は向かい風も加わり、乗り上げそして船底にぶつかる波頭の腹に響く音と船のきしみで怖かった
1時間で無事波照間港口に達した

         波照間港
北回帰線に近いこの島では真夏に太陽は真上から照りつけ、偏西風の影響が少ない、この為に冬から春には、瞬かない南十字星が見える









       岸壁ターミナル売店
入手の難しさは「越の寒梅」以上という「泡波」が入手できるかもしれない売店
勇んで店に駆けつけたが何と「今日まで休業、営業は明日からです」の張り紙があった
マイクロバスで島を案内してくれた民宿経営者に聞いたら、泡波は「ここ以外では買えません」とのご返事だった 残念!

          島の交通事情
島には観光バスとかタクシー・ハイヤーは無い,
民宿送迎バスを事前に予約して、島の観光を行う



           コート盛
琉球王府時代からのの火番所・遠見台

高低差の殆どない島では今でも海岸線が見える


           高那崎
白く砕けるのは日本に最初にぶつかる太平洋の波濤である、その先に微かに見えるのが日本最南端の灯台である



     学童慰霊碑
西表島への強制疎開で亡くなった児童を悼む碑
1944年秋小学校教員として赴任した、実は陸軍中野学校出身の諜報員の命令で全島民が西表島の南風原に強制疎開させられた
疎開させられた南風原で島民の2/3がマラリアで亡くなった
「米軍上陸後に島民が寝返るかもしれない」という身勝手・理不尽な理由からだったという。


      オヤケ・アカハチ生誕碑
1500年琉球王府と戦い敗れた島出身の英雄「オヤケ・アカハチ」を称える碑である
元々波照間島は独立自治の島だったが琉球王府の支配を受け、更に17世紀に琉球王府が薩摩藩の支配下に置かれるに至り、遂に悪税「人頭税」が布かれ、度を越した過酷な圧制に島人は苦しんだ
幻の「南波照間島」(パイパティローマ)へ集団離島したとの伝説も伝わっている


        ニシ浜ビーチ
島の北西にある、波が穏やかで泳げる砂浜の海岸
この日、3月11日の気温は24度だったから、泳いでも不思議ではないが積雪1m、気温差が20度以上ある札幌の住民から見ると驚きの光景だった





 


日本最南端の碑
 
宗谷岬出身の青年が島でのアルバイト代をたたいて、独力で建てた


        日本最南端の碑
石垣島出身の大濱信泉早稲田大学総長建立 


        日本最南端の碑
波照間島を管轄する竹富町が建立した


気圧の谷が近づいている、早く石垣島に戻りたい、船長の判断で在島時間は2時間も無い駆け足観光だった。
徒歩見学は高那崎、3つの「最南端碑」とニシハマビーチだけだった。
あとの「学童慰霊碑」、「オヤケ・アカハチ生誕地碑」、アカハチと並び称される英雄長田大主(ナータウーシュ)を祀る「長田御嶽」(ナータウタキ)、小さな飛行場、背丈を越える収穫作業真っ最中のサトウキビや島民数より多いヤギや「星空観測所」、セスナクラス不定期航空便の「波照間空港」等全て車窓からの眺めだった
更に残念だったのは「泡波」を買えなかった事である。
こういう事なら沖縄の知人が送ってくれた「泡波」を(波照間出身者からお裾分けのお裾分け)旅行前に慌てて飲み干さなければ良かった。
次回は少なくとも島に1泊したい。
八重山で一番団結心が強く、多くの行事を受け継いでいるという、島人の暮らしにも触れてみたいものだ。
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