越 後 帰 省 0508
8月8日法事の前に河井継之助と山本五十六の墓碑にお参りをした 周りの墓碑は大地震で倒れたり、壊れたりしたが流石に継之助さんと五十六さんのは修復されていた 高校への通学路にあったがあの頃は周囲の褒め言葉に反発して近寄らず、今回が始めての墓参であった 法事の後三島町で流しうどんを食べ、和島町の良寛の里で良寛さんの書を拝見してから弥彦グランド ホテルに泊まった 翌日弥彦神社を参拝した、蒸し暑くて汗が噴出し、冷えたトコロテンがうまかった 新潟祭りを31階のトキメッセ展望台から眺めて、7時半に帰宅した 30年の東京暮らしも僅か5年で体が北海道仕様に変換されたようで、暑さには往生した |
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小千谷 慈眼寺 061112 |
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2年前の中越地震で壊滅的な被害を受けた本堂は同じく大被害を受けた200の檀家では修復が不可能と心配されたが全国から寄せられた多額の支援金で復興がゆっくりと進んでいた 何かとこころ傷む出来事が多い昨今だがなんともこころ温まる嬉しい話である 継之助と岩村との小千谷「慈眼寺」での談判など幅広い情報がご覧になれます慈眼寺の歴史 継之助の母「貞子」と妻「すが」は晩年を札幌で過ごした。 戊辰戦争の後、継之助を恨む人が多く、二人は長岡に住む事ができなかった。 すがと貞子は森源三を頼って北海道に渡った。 森源三は戊辰戦争後に藩主から継之助の母と妻を扶養する事を命じられた旧長岡藩士であった、のちに札幌農学校(現・北大)の校長となる人物である。 すがは明治27年、61歳で亡くなり、長岡の栄涼寺に墓がある、結婚してからはほとんど家におらず、帰ってきてみれば戦争で会えなくなってしまった夫と、今は一緒に眠っている。 ところで北大ポプラ並木には河井家も絡んでいました。 クラーク博士と河井家の末裔 |
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