旧満州列車の旅
                                070513〜20

     新千歳飛行機瀋陽列車長春列車ハルピン夜行寝台列車大連バス旅順バス

     ー大連列車瀋陽バス丹東バス瀋陽飛行機新千歳

  晴天続きで、アカシヤ・桐そして名も知らない野草が咲き乱れる穏やかな気候の中の8日間、存分に楽しめた。
  至るところで見られた高層ビルへの立替、広告看板そしてTVCM等を見ると中国は本当に「共産主義の国」
  だったかしら、と短期間の通過旅人には不思議に思えた。

  不思議といえば清朝発祥の地「瀋陽故宮」でも根本が太くて見上げるような巨大樹木にお目にかかれなかった。
  幾ら戦火に見舞われたにしても既に60年は経過している訳だし、もしかして凍て付く冬の長い寒さに耐えられる
  樹木しか育たないせいだろうか。

  旧満州といえば、かって関東軍が悪行の数々で現地の人々に多大な被害を与えた事が忘れられない。
  しかし、旅順の写真展示館や瀋陽の9・18博物館の史跡説明や展示写真を見ると日本陸軍・日本の悪行を中国
  国民に教えると同時に、いやそれ以上に中国共産党の素晴らしい偉業を伝えるという意図も感じてしまった。
  
  この事は日本の前に満州を侵略占領していたロシヤを非難する掲示が全く見られなかった不思議にも通ずる。
  かっての師=ソ連への遠慮もあるんだろうか。
  中国政府にとって日本パッシングは中国共産党そして現政権の偉業を際立たせるに便利な手段でもあるようだ。

  ところで江沢民の反日教育の成果を向けられるかと内心心配していたが瀋陽や大連など近時日本企業が進出し
  ている地域では表面的観察だが余り感じなかった。
  それでも515部隊のあったハルピンと瀋陽の9・18博物館では冷たい目を感じ、自ずと緊張する事もあった。

  30年前の「陶磁器の都」景徳鎮への旅は文化大革命終息間もない時期、紅衛兵の破壊活動の残滓がいたる
  ところに残り、なお緊張感がただよぃ、政治的なスローガンの垂れ幕が各所に掛けられていた。
  景徳鎮中心部では道路一杯に自転車があふれ、その間をけたたましいクラクションと大声で駆け抜ける
  自動車には冷房がほとんど付かず、窓を手一杯広げて風を入れていた。

  場所の違いもあるだろうが自転車はほとんど姿を消し、変わって冷房付きの乗用車・タクシー・トラックそして
  初めてみたオートバイのタクシー、昔懐かしい3輪トラックなどが街にあふれていた。
  右側通行の車は自分が優先だと縦横無尽に乱暴な運転をし、歩行者は何処でも何時でも巧みに車の間を
  ぬって道路を横断していた、恐かった。

  老若男女を問わず、至るところで我々には喧嘩にしか聞えない大声での会話と厳しい表情が溢れていた。
  笑顔は我々の添乗ガイドと丹東の鴨緑江遊覧船から見えた対岸の北朝鮮の2〜3人の子供だけだった。
  無意味に笑顔を振りまき過ぎる我々からすると正直言えば不可思議・不気味だった。

  中国側の「丹東」から鴨緑江を隔てた対岸の北朝鮮の「新義州」を遊覧船から覗いた。
  錆びの目立つ船、恐らく動かない観覧車、人気の無い建物、不気味に点在するトーチカ、そして晴天の土曜日の
  昼下がりを釣りやカケッコを愉しむ?老若男女の姿が見えたがこちらの挨拶には一部の子供を除き、無表情だ。
  彼らのうしろには銃を持った兵士?の姿も散見された、金正日体制の締め付けの厳しさを感じた。

  旅行出発前は遥かな地平線から昇りそして沈む真っ赤な太陽、満天の星、容貌・スタイル抜群だという大連の
  婦警さん達を見たい、カメラに収めたいと意気込んでいたが何れも叶わなかった、誠に残念!!!だった。

  次回の宿題としよう。

  旅行から戻って何時もの通り、遅ればせながら「満州本」を読み出した。
  今回は同行のNさんが旅順について旅行中そして帰国後も調べておられることが刺激になって、何時も以上に
  読書範囲が広がった、有難い事である。特に最後の3冊は自分の体験を語っており、面白かった。
   
    機密日露戦争史(谷壽夫)、満州事変から日中戦争へ(加藤陽子)、司馬史観と太平洋戦争(潮匡人)
    旅順攻防戦の真実
(別宮暖朗)、旅順(拓殖久慶)、斜陽に立つ(古川薫),昭和天皇とラストエンペラー(波多野勝)
    あの戦争から遠く離れて
(城戸久枝)、孫に語り伝える「満州」・じいちゃんは引き揚げ少年だった(坂本龍彦)
    

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