対 馬
                                   0403
     居るところ絶島、方四〇〇余里可り。山は険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。
   
 良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて市糴(してき)す.(3世紀の魏志倭人伝)

対馬は九州の最北端部、九州から132Km、韓国までわずか49.5kmの国境の島である。
東西約18km、南北82kmと細長く、面積は約710万平方km、隣の壱岐島の5倍の広さがあります。
全島の88%を森林が占め、入り組んだ溺れ谷が美しい浅茅湾は絶景で、大陸系の動植物が息づく雄大な自然に
囲まれ、45,000人が生活している(対馬の観光パンフレット)。
   
対馬といえば魏志倭人伝、李朝との窓口、日露戦争,戦後の密貿易の基地、李承晩ラインと拿捕事件そして津島恵子を思い出す.

殿岡地区ではロシア兵上陸記念碑をみた、東郷元帥の「恩海義嶠」(めぐみのうみぎはたかし)が刻してあった。
日露戦争で日本海軍に轟沈され、島に逃れてきたロシア水兵に水や食料を与え、民家に分宿させた親切な島人の行為を聞き、
感激して揮毫したものだそうだ
島内にはここ以外にもロシア兵上陸記念碑が沢山ある
また太平洋戦争時に軍艦の主砲を移転して据えた砲台後なども2ヶ所でみた、何れも実際に使われた事はなかったそうだ。

万松院(10万石待遇の対馬歴代藩主宗一族の菩提寺)では菜の花、ツツジ、水仙、椿、梅などが満開だった

修学旅行に島を訪れた韓国学生の姿を沢山みた、名札を付け、メモを取っていた対馬と韓国の地理的、歴史的な関係の深さを感じた
韓国の釜山が見えるという展望台に夕食後に登ったが望遠鏡でも微かにサーチライトらしきものが見えるだけで、宿のパネルにあった夜景は見えなかった

対馬藩の中心的な外交官「雨森芳州」と西街道巡検使の随員だった「曾良」(芭蕉の弟子)の墓を見たかったが
ツアー旅行の悲しさで叶わなかった。


対馬は道路が狭く、曲がり食っている、この為に中型の路線バスを観光バスとして使っている、その狭い路を
猛スピードで車がすれ違う、怖い

また道路沿いに公衆トイレが少ないしドライブインも殆どない更にバスのドライバーは観光客が狭い車内での
荷物の移動に往生しているのに一切手を貸そうとしなかった、今時役人でも見られない振る舞いだ。

昔司馬遼太郎が「壱岐・対馬の道」取材に来た時も口をきかないタクシードライバーと逆に親切だった佐須奈集落の「カッポレ」のマダム(おかあちゃん)の話を書いているが対馬観光振興の為に改めてもらいたいものだ

対馬と韓国の共通語 チング(親友) パル(耕す)
 
対馬弁       タカオキ(夜更け)、コラシ(暇ないし退屈)、サカシメ(逆)、コビルマ(おやつ)
対馬の地名     女連(うなづら)

(バスガイドからの聞き取り)
                          
 旅行 壱岐